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370799 江戸時代は離婚が当たり前だった?
 
吉住岳人 ( 16 大阪府 会社員 ) 21/09/24 PM04
江戸時代は現代よりも離婚する人が多くいた。
土佐藩には「7回以上離婚することは許さない」という禁止令がでていたりしました。

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離婚は今より気軽だった! 江戸時代の意外すぎる離婚事情をまとめてみた【離婚率は?】

離婚に関しても、封建社会で男尊女卑のイメージのある江戸時代のこと、夫が「離婚だ!」「出て行け!」と言い放ったら妻は問答無用で従わねばならなかったと思われがちです。時代劇ドラマでも、妻は泣く泣く家から出て行くといったシーンも。
これだけ見ると「なるほど、江戸時代は口頭で簡単に妻と離縁することができたんだな」と思うかもしれませんが、実はちょっと違う。

数百年前の江戸時代においても、さすがに手続きを踏む必要がありました。
現代の日本における離婚制度では、夫婦連名の離婚届を役所に提出することによって離婚が成立しますが、江戸時代の離婚制度はシンプル。

町民や農民は、離縁状を夫が妻(もしくは妻が夫)に直接渡すことで離婚は成立しました。一方、武家の場合は夫と妻双方の実家から主君へ離婚を届け出ることで離婚成立となりました。
「三行半」
現代でも「三行半をつきつけた」といえば「愛想をつかした」という意味で使われています。
ここで重要なのが、離婚が成立するには妻側の承諾が必須であったこと。承諾の証拠として、三行半の受取書である「返り一札」を妻に出してもらうこともあったそうです。
もし、妻が三行半を受理していないのに一方的に離婚を言い渡したあげく再婚でもしようものなら、重婚の罪に問われ「所払い(住んでいる場所からの追放刑)」に処せられたとか。
また、三行半を書くのは夫の「義務」であり、三行半なくしては離婚も再婚もできませんでした。
この三行半は夫から妻に出すのが基本でしたが、妻が夫に書かせる場合もありました。「先渡し離縁状」というのがそれで、夫が働かないとか博打をするなど問題がある場合、妻が「アンタ、今度なにか問題を起こしたら離婚するからね」という意味で先に離縁状を書かせて、取っておいたんだとか。

離縁状「三行半」は再婚許可書!?
さて、何度も登場している三行半。江戸時代の離婚で欠かせない重要アイテムです。正式には「離別状」「去状」「暇状」と呼ばれるものですが、画像のように三行半で内容が書かれていることが多かったので、「三行半」が通称となりました。

さて、三行半には重要なポイントが2つあります。
まず、ひとつめのポイント、
「離婚は明言すれど、離婚理由はあいまいにする」
三行半は離縁状であり今でいう離婚届なわけですから、当然、「離婚」を明言しなければなりませんでした。さきほどの画像でいえば「暇差遣シ申候」が「離婚します」という部分です。決まったフレーズはありませんが、「離縁致し候」など離婚を明確にするフレーズは必須でした。

ある研究によれば三行半に書かれた離婚理由の1位と2位がこちら。
1位「理由なし」
2位「私の勝手により」

「理由を明確にしないことで、妻の再婚をしやすくする」
たとえば、妻が浪費家で家事や育児も疎か、我慢の限界により離婚になったとします。三行半にも「妻が浪費家で家事も育児も疎か故に離婚します」と具体的な離婚理由を書く。
これでは誰がどう見てもこの女性は“ハズレ”だと思います。この女性と再婚希望する人物は現れない。
離婚された女性は実家に「出戻り」として厄介になるか、自力で生きてるしかない。
離婚理由を具体的に書くことで、元妻の今後の人生の選択肢が狭くなってしまうことでした。あえて理由を曖昧にすることで再婚し易くしたと言えます。これは夫側にも同じことがいえます。
曖昧理由の裏には、双方のダメージを最小限にする意図があった。現代でも退職願に「一身上の都合により」と書いたりしますが、それと同じです。
続いて、三行半の重要ポイントその2。
「再婚の許可証でもあること」
三行半の後半に「どこの誰と再婚しようと私に一切異論はありません」と、「誰と再婚してもいいよ」というフレーズも三行半には必須でした。

実際、武家の場合、離婚率は10〜11%、離婚後の再婚率はなんと50〜59%にもなったといいます。“二夫にまみえる”ことなんて結構普通であった。
想像以上に離婚・再婚のハードルは低かった。一方、男性側も家事を女性に頼っていたのは今と同じ、やもめ暮らしはなにかと不便で再婚を望むことが多かったとか。
離婚した場合の子どもの引き取り先は、夫が子どもを引き取ることも多かった。これも再婚が珍しくなかったことに関係がある。
意外な場所が離婚調停所も兼ねた!
江戸時代の離婚は、双方の親、仲人などの介入や調整による「内済離婚」つまり「協議離婚」が一般的だったといわれます。
しかし、話し合いが決裂し離婚が不成立になった場合、女性は強硬手段として“夫の手に負えない場所”へ避難することがありました。その避難場所を寺が担うこともあり、こう呼ばれていました。
「駆け込み寺」
別名「縁切寺」。三行半とともに、現代にも言葉が残っています。

駆け込み寺(縁切寺)でとくに有名だったのは、徳川幕府公認だった、鎌倉の東慶寺と群馬県伊勢崎市にある満徳寺。
さて、駆け込み寺へ駆け込んだ女性は、ここで足かけ3年の修行をし夫に離婚を承諾させました。なんでも「3年も別居していれば夫婦関係は破綻している」という社会通念があったとか。
時代によって違うが、縁切寺は離婚調停所としての役割もありました。寺に夫を呼び出し、妻と和解させ復縁させることもあったし、協議離婚に持ち込むこともあった。また、「お前の妻はどうしても離婚したいというので、こちらの寺で預かっている。離縁状を書いて出しなさい」と、寺から役人を夫の家に派遣し半ば強制的に三行半を書かせることもありました。
それでも「どうしても離婚したくない!」と夫がねばった時は、「寺法を犯した“ならず者”として牢にぶちこむぞ!」と脅されたんだとか。ここまで言われて離婚に応じない男性はいなかったそうです。
因みに、寺に駆け込んだ女性は、形式的に髪を切ることはあっても、頭を丸めて尼になることはなかったといわれます。
熟年離婚など離婚が増えているといわれる現代ですが、江戸時代の離婚率は現代より高かったといわれています。その裏には再婚のしやすさ、イメージとは異なる女性の立場なんかがあったようです。
 
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371248 江戸時代の出産の裏側 匿名希望 21/10/09 PM09

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